森耕治の西洋美術史論 カラヴァッジョの「リュート弾き」
「リュート弾き」 カラヴァッジョ 1595-1596 エルミタージュ美術館
「バッカス」ウフィツィ美術館
「リュート弾き」1596年頃)
ウィルデンスタイン・コレクション
「リュート弾き」は、カラヴァッジョが、ローマで独立した画家として活動し始めた直後の作品です。同時期の作品には「バッカス」「トランプ詐欺師」「果物籠」「懺悔するマグダラのマリア」等、意欲作が並んでいます。
この作品においては、5年後に制作された「聖マタイの召命」や「聖マタイの殉教」に見られるような、劇的表現には到達していないものの、そのリアリズムと、明暗の効果は、バロック美術の幕開けが間近いことを物語っています。
またカラヴァッジョは、庇護者のデル・モンテ枢機卿の依頼で、この絵に大変構図が似ている、俗にニューヨーク・バージョンと呼ばれる別バージョンも制作しました。このニューヨーク・バージョンでは、左の花瓶がなくなって、代わりに、超小型のイタリア語でスピネッタと呼ばれるチェンバロの一種と、ルネッサンス・リコーダーが描かれています。
さて、この絵を注文したのは、銀行家であり、美術品のコレクターでもあったヴィンチェンゾ・ジュスティアーニです。彼はフランドル楽派の作曲家ジャック・アルカデルトに師事したことのある大の音楽ファンでした。
画中のテーブルの上に、ジャック・アルカデルトの歌曲「あなたは私が愛していることをご存じです」の楽譜が置いてあるのは、決して偶然ではなく、注文主のリクエストだったはずです。
「画面概略」
ペドロ・モントーヤがモデルか
リュート弾きの青年の姿は、左上から射し込む太陽光によって、暗い背景から浮かび上がっています。彼の頬は丸くて艶々していて、眉毛は半円形に整えられて、顔立ちは中性的です。それに陽に焼けておらず、単なるモデルではないことは明らかです。この青年は、去勢された男性歌手、カストラートのペドロ・モントーヤだというのが通説です。カストラートは、小太りになりやすかったと言われていますので、モデルが丸みを帯びた体格なのは、もしかするとその為なのかもしれません。
それに彼は、白いシャツを着て胸をはだけ、独特の色っぽさを発散させています。当時、人気のあるカストラートは、スター的存在でした。上流階級の好みだったようです。
次に、青年が演奏中のリュートに注目してください。細部に至るまで極めて丁寧に描写されています。画中のリュートに関して、東京音楽大学講師で、日本を代表するリュート奏者の水戸茂雄先生は、以下のように述べています。
「カラヴァッジョは特に好きな画家である。彼はリュートの画を多く描いているが、それらは何れを見ても細部に至るまで精密に描かれている。この『リュート弾き』のリュートも実に精密に描かれている。6コースのルネサンスリュートでリブ(裏板)は恐らく13枚張りなのだろう。リュート弾きも演奏をしている描写を見る限り、かなりキャリアを積んだ弾き手だと理解できる。巧みにリュートを弾きながら、手元にある愛の歌が書かれたマドリガルを恍惚として歌う様子が、見事にこのリュート弾きの顔から伝わってくる。」
水戸先生の見解を伺う限りでは、モデルの青年が本物の音楽家であったことは間違いないようです。また、現代の専門家すらも納得するだけの世界観を、極めて忠実に描き出せたカラヴァッジョの才能も素晴らしいと言えるでしょう。
バロック・ヴァイオリン、楽譜
楽譜と果物籠
テーブルの上を注視してください。バロック・ヴァイオリン、楽譜、果物籠、それに透明なガラスの花瓶に生けられた花が見えます。
まずバロック・ヴァイオリンですが、私たちが知っている通常のヴァイオリンよりもずいぶん小さく見えますね。これについて、関西を中心にご活躍中のバロック・ヴァイオリン奏者・磯部陽さんは、以下のように述べています。
「現代のヴァイオリンに比べ指板(しばん)も短いので当然バロック・ヴァイオリンですね。弓もバロック弓ですが、その中でもとりわけ初期バロック時代の弓です。弦の張り具合を調節する金属のネジがついておらず、クリップを木にはめこんで張る原始的なタイプ。サイズは小さいですよね。この時代でも子供用バイオリンは作られていましたので可能性はあります。踊りの伴奏用のポシェットバイオリンにしては逆に大きめな気もします。」
次に楽譜ですが、まるで細密画のように、それも斜め前から書き写しています。本物の楽譜と見紛うばかりです。冒頭でも触れたとおり、この楽譜は、フランドル楽派の作曲家ジャック・アルカデルトが作曲した歌曲です。その歌詞の一部を訳してみました。
「あなたは私が愛していることを知っていますね。実際に好きでたまらない。でも、あなたは、私がすでにこの世にいないことを知らない。」
こんな切ない歌詞の歌を、カストラートが甘くて官能的な声で歌ったなら、多くのご婦人方、それに美少年好みの紳士方を夢中にさせたことでしょう。
左端の白百合が生けられた花瓶を見てください。透明なガラスの花瓶は、多分ベニス製のたいそう高価なものだと思います。また、「バッカス」で描かれた大きなワイン・グラスとカラフで発揮した、透明ガラスの質感と描写力は、ここでも遺憾無く発揮されています。
『果物籠』(1595年 – 1596年頃)アンブロジアーナ絵画館
最後に、テーブルの左に置かれた果物籠に注目してください。籠の中には洋梨、イチジク、ブドウの葉などが盛られています。これらの果物の季節は9月ごろです。恐らくカラヴァッジョの庇護者デル・モンテ枢機卿の邸宅の庭に生った果物だと思います。この果物籠は、ほぼ同時期に描かれた静物画「果物籠」を彷彿させます。
カラヴァッジョは、静物画家としても、すでに一流だったということが、よくおわかりいただけることでしょう。